暮らす記録。

シンプルライフをめざして日々こまごまと。

家事のたのしみって

赤毛のアン』で有名なモンゴメリの本、小学生の時から繰り返し読んでいる。

そのなかでも、あまり有名ではないのだが『丘の家のジェーン』という本が大好きだ。

丘の家のジェーン (新潮文庫)

丘の家のジェーン (新潮文庫)

 

 11歳のジェーンは、厳しい祖母と美しいけれど何事も自分で決めようとしない母、そして伯母と一緒に、お屋敷街の立派な邸宅に住んでいる。祖母はジェーンに厳しく当たるし、ジェーンはこの邸宅でいつもびくびく不安を感じて暮らしている。ジェーンと母は深く愛し合っている。父はおらず、父の話題は絶対の禁句だ。

ある日、父から、夏休みを自分のところで過ごすよう招待の手紙が来る。ジェーンは行くのが嫌で嫌でたまらないが、結局行かざるを得なくなる。しかし実際に会った父は予想外に素晴らしい人物で…

…とまあ、こんな感じで進む物語なのだが、この本を繰り返し繰り返し読んでしまうわけは、物語の筋書きというよりも、中盤以降のジェーンと彼女の家事の話がたまらなく好きだからだ。

何一つ自分で決められないお屋敷を出て、海べりに父と二人で住む小さな家を買い、ジェーンは水を得た魚のように、その小さな家をととのえはじめる。家具をととのえ、食料品をしまい、初めて買った料理本と首っ引きで料理をする。鼻っ柱のつよさが現れ始め、わたしはこの家の主婦なのだと、ジェーンはどんどん自信をもっていく。

 

この、ジェーンが家を見つけて嬉々として家事にいそしむさまがとにかく憧れで、この本を何度も何度も読んでしまうのだ。

世の中にはいろんな方がいて、その中にはもちろん家事が大嫌いな方もいらっしゃるだろうし、膨大すぎる家事やその他の仕事に押しつぶされそうな方もいらっしゃるだろう。わたしもいずれそうなるのかもしれない。けれども、わたしは今のところ、家事が好きで、自分で自分の家のことをするのが好きだ。

実家ではこうではなかったから、おそらくわたしも、ジェーンのように「自分の家」を得たことが嬉しいのだろうと思う。

もう一冊、けっこう好きな本の『聡明な女は料理がうまい』にも、

「実家の台所からみれば、二十世紀が突然縄文土器時代に逆戻りしたようなものなのに、私にはこの台所のほうがずっと快適に思われた。ともかく、これは私の台所なのだ。母ではなく私が、この台所のボスなのだ。それはなんと気持ちのよいことだったろう」

というくだりがある。そうなのよ、それなのよ、と、この本の著者の桐島洋子さんの威勢の良さと歯に衣着せぬ物言いにたじたじなりつつも、このへんの段落は心から賛成。

この本のもうひとつすきなくだりは、ちょっと長いけれど次のもの。

「台所に関する限り私は無政府主義に反対で、整然たる管理社会にヒトラーのような独裁者として君臨したいと思う。よけい者は容赦なく焼却炉に送る。整頓と清潔をムネとして放縦と不潔をきびしく取り締まる。国民総背番号制的発想も台所では悪くない。どれだけのものがどこにどういう状態で存在するかを独裁者の胸三寸に完全に把握して自由自在に駆使できるようでなければならない。戦争映画かなにかで凛々しい将軍が「エブリシング・アンダー・マイ・コントロール」とさりげなくつぶやいたりする感じが私は好きだ」

ここだけ取り出したらえらいいかつい感じだけれども、彼女の歯切れのいい畳み掛けるような文体で台所作りについて語られた最後の段落がこれだ。この本を読んでから、わたしも時々、台所を掃除したあとなどに「エブリシング・アンダー・マイ・コントロール」と思い浮かべてしまったりする。

聡明な女は料理がうまい

聡明な女は料理がうまい

 

(アノニマさんから復刊していたんですね。わたしは90年の文春文庫を持っている)

 

結局、わたしにとっての家事がたのしいというのは(生き物としての巣作りの本能は別として)自分のことを自分でする喜びなのかもしれない。自分で作りたい料理を決めて、自分で材料を買って、自分で作り方を調べたり試行錯誤しながら作る。それで大好きな夫に美味しいと言ってもらえたらとても嬉しい。 自分の住むところから無駄なものをなくして、きれいに整頓して、ととのった様子をみるとじんわり幸せを感じる。

 

子どもが生まれて、そのあと仕事復帰をしたら、きっと今とは比較にならない忙しさだろうし、用事と時間に追われて汲々となるだろうな…と、今から漠然と不安に思ってしまう。

だから、いまのわたしが自分の家で家事をすることが楽しく思えていること、なぜ楽しく思えるのだろうということ、書き残しておこうと思ったのでした。

長々と書きましたが、おつきあいくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました。 

 

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